バシュラールの難解さについて

ここまで序章を一節ずつ、半分まで読んできたが、やはりバシュラールは読みにくい。心に留まる言葉を読み込もうと思っても、周囲にいくつもの意味や思想が巻かれていて、輪郭がうやむやになっていく。序章でさえそうなのだから、本章はどうなるのか。他の人が彼のことを書いたブログを読んでも、それほど深められていない印象がある。
 
松岡達也氏は『バシュラールの世界――文学と哲学のあいだ――』でバシュラールが日本でさほど広がらなかったのは翻訳が困難だったことをあげている(やはり誰もが難しさを感じている・・・)。彼の詩的な発想は日本語訳になじみにくく、また、彼の素養と関心の広さが翻訳者のそれと対応しにくいと述べ、〈バシュラールを読むための心得〉を6つ掲げている。
 
1)彼が20世紀の科学に明るいということ
2)哲学の専門家であるということ
3)精神分析に造詣があること
4)文学的教養が深いということ
5)文体に特徴があること
6)思想的立場に変更があったこと
松岡達也著『バシュラールの世界』(第一章バシュラールの読み方 より)
 
わたしが今実感しているのは5)の部分。さらっと読んだときには理解できていると思うのに、説明しようとするとどの言葉も適さなくなって、抜き書きで止まってしまう。どこを触っても意味が崩れていく。
先の松岡氏の言葉をまた少し引用する(同本より)。
 
「もう一つバシュラールを日本の読者にとってわかりにくくしているのは、彼の文章、文体である。 もし仮に、向こう側のものがガラスを通って伝わってくるように、思想が言語のガラスを通して裸のまま、ずっと伝わってくるのなら、それなりにわかりやすいのだが、彼の場合、思想がかなり言語の飾りをつけて表現されている。たとえば、直観の純粋性がはじめからあるというのは間違いだ、人はだれも、主観的、感情的なものをまったくまじえずに、対象に向かうことはできない、ということを彼は前にも書いたように「源泉は不純である」という風に書く。(中略)バシュラールの作品は、サルトルの論文を読むのと違ったむつかしさがある。評論であり、詩論であり、批評文でありながら、詩的なイメージが多く出てきて読者を誘惑し、読者を魅了する。そうした詩的イメージや文章のリズムをうまく翻訳するのは不可能に近い。」
 
やはりそうか。そう、論を読んでいるのに、詩を読んでいるような気にさせられるのはわたしだけではないんだ。またそれが魅力でもあるんだ、と再認識した。なかなか困難ではあるけれど、読み甲斐がある。自分なりに読んでいこう。翻訳の方はさぞや大変だったろう。
また〈バシュラールを読むための心得〉の6)も面白い。彼の詩に対する見方が大きく分けて三期に分けられているということ。それはまた改めての機会に。