『空間の詩学』序章Ⅵ

◆序章Ⅵ(p027-031)
 
引用〔強調部分も本文〕
 
「もし詩的イメージに関して、純粋昇華の領域を分離できれば、おそらく精神分析学の研究と比較して、現象学のしめる位置がさらに正確にしめせよう。この純粋昇華とは、情念の重荷をすてさり、欲望の圧力から解放された昇華であり、なにものをも昇華させない昇華である」
 
「詩的意識は、ことばのうえに、日常のことばの上方に出現するイメージによって完全に吸収される。詩的意識は詩的イメージによってまったくあたらしいことばをかたるのだから、過去と現在との相関関係を考察しても無益である」
 
「精神分析学者はイメージの存在学的研究をさけ、ひとりの人間の歴史をほりさげる。詩人のひそやかな苦悩をみて、これをしめす。かれは肥料によって花を説明するのだ」
 
「詩人がさしだすことばの幸福――ドラマそのものを支配することばの幸福をとらえるには、詩人の苦悩を体験することはいらない」
 
「いきられないものをいきること、ことばの開き(ウヴエルチュール)にたいし敏感であることが問題なのである」
 
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要約
 
・純粋昇華とは、作者の情念や欲望や過去を排除したうえでの詩的イメージであり、精神分析学に比べ現象学は純粋昇華を正確に示すことができる。なぜなら心理学者や精神分析学者は詩的イメージのなかに、単純な戯れしかみとめず、一人の人間の苦悩や人生をあてはめてしまう。そこに詩的意味を思いつかないからである。しかし詩(ポエジー)は無数に噴き出るイメージをともなって存在し、そのイメージによって創造的想像力は自分のなかに定着するのだ。
 
・「いきられないものをいきること、ことばの開き(ウヴェルチュール)にたいし敏感であることが問題」→★とても魅力的な言葉。だが、その意味は今はわからない。ウヴェルチュール(ouverture)=開くこと、というところまで。ここは保留。
 
・★この章でのバシュラールはやや興奮気味に精神分析学者への批判をくりかえしている。精神分析学の判断に従うと、詩人は一つの症例にされてしまうと述べ、最後には「心理学者は胎以外のものに口をだすな」と論争口調である。どこかいらだちさえ感じさせる。詩が精神分析学者によって解釈されことが許せないようにみえる。