木村恭子詩集『調理の実習』(2021.7刊)

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コンパクトで簡素な造りの詩集を手にする。第7詩集。43篇を収めている。手作り風でちいさくて、でも内容は濃く、個人詩誌『くり屋』に通じていると感じた。どちらも一筋縄ではいかないものを持っている。
 
台所用品が題材となっている作品でまとめられていることもあり、出てくる物や光景は見慣れたものが多い。テーブル・ガスコンロ・フォーク・湯呑・スリッパ、などなど。暮らしに密着したそれらの物が、ふとしたはずみに時間の裂け目を見せる。
 
詩「テーブル」では、レストランでN夫妻がいつまでも来ない料理を待っている。こんなことで声を荒げてはいけない、そんなに空腹でもないし、と気長に待とうとするのだが、待っている間にコップの水をこぼしてしまったり、後から来た客に料理が運ばれるのを見て立腹したり。何度か催促するものの「そのうちじきに」「待っていて下さい」という返事ばかり。
ああ、あるよねえ、こんなこと。
思えば、レストランで料理を待つ時間というのは一種独特なものだ。注文したあと、調理は厨房という奥まった場所で進められるので確認のしようがない。注文した者たちは目隠しをされたように待ち時間を過ごす。けっこう不安定な時間だな、と思いながら最終連を読む。
 
まだ来ないな。変ですねえ でももうじき来るでしょうよ。そうだな 別に急いでいるわけでもないしな お前足元が寒くはないかい。N氏は古びたマフラーをおもむろに夫人に差し出す。天国の一日は長く 二人にはこれといった用が何もない。老いたるN夫妻はこうしてどこかのレストランで 今も料理を待ち続けているのである。つつましく向き合って。(詩「テーブル」抜粋)
 
天国、という一文にハッとする。このふたりはこの世を去っているのだ。レストランで料理を待つふたり、という単純な設定が根底から覆される。しかしそこに恐怖を感じない。それどころか、死後もなお、お互いを思いやっているその姿にぬくもりさえ感じる。
 
詩「手拭き」。普段寡黙な山田さんがめずらしく話をしたので皆が注目したら途中で口をつぐんでしまった。何の話をしようとしたのか、まわりは気になるがわからないままだ。見舞客もいない山田さんは話しかけても目をしばたいて少し笑うだけで何も答えない。
 
一度だけ山田さんが皆を笑わせたことがある。食事の前 お茶と手拭きが配られると 寝たまま白い手拭きを開き「これはあれですなあ 手品かまじないのたぐいですなあ」そう言って顔の上にひょいとかぶせてみせた。ほんの僅かの間だったけど それからほどなく容態を悪化させた山田さんは 雨の夜 本当に消えてしまった。(詩「手拭き」抜粋)
 
おそらく山田さんは集団のなかで「いてもいなくても同じ人」であり、本人も周囲に注目されることが苦手で、それでよかったのだろう。けれど「私」は山田さんを気にかけていた。顔にひょいと手拭きをかぶせる悪い冗談のままこの世を去ってしまった不器用な山田さんへの愛着と哀しみがにじみ出ている。
 
他にも「布巾」「エプロン」「盆」「ラップ」など、印象に残る作品が多数あった。
最後にわたしが好きな詩「カップ」を紹介する。
 
「カップ」
 
もしも買物をしている間に気が変ったら
と 近くのポストをやり過ごし 人参と法蓮草を買って
スーパーの横のポストに入れるつもりが
本屋さんにでも立ち寄れば気が変るかもと 店先を覗いたら
カントリー風キッチンの表紙の本があって
その奥から 「コーヒーでもいかが?」
厚かましくもテーブルに着き
思案しつつ ぼってりと重いカップを傾けてしまい
とっさに手提げから葉書を取り出し拭こうとし
オットこれじゃなかった!
ティッシュでテーブルを拭いて 挨拶もそこそこに飛び出し
バス停のところのポストに入れるつもりが
バスにでも乗っていれば気が変るかも
やって来た便に乗り込み どんどん町から遠ざかり
暮れてしまうまでには思い切らなくちゃ
古いポストが見えた停留所で下り
でも収集時間の張り紙なんてどこにもなく
でももう気持ちは変わらないと分かったので エイッと投函しました
昨日御送りした御断りの葉書が
運よくお手元に届き
あなたの知らない遠い町の消印で
いささかヨレヨレで
野原のようなシミまであるのは
申し訳ありませんが そういう理由からです (全文)
 
木村恭子詩集『調理の実習』(私家版)2021.7月刊