詩集を手にしたとき、沼の水面がゆらいでいる映像が脳裏に浮かんだ。音も色もなくかすかにゆれる水面。そのイメージは、薄明るいのに霧で見通せず、足元は暗くてより見えない不思議なカバー写真から想起させられたのかもしれない。
読みはじめてすぐに、そのイメージがそう外れたものではなかったことに気がついた。22作の詩篇の多くに水が流れている。海・湖・涙・汗・温泉・雨・袋の中の水。水は作品にとどまらず、動き、めぐっている。そのため個々の作品がゆるくつながりをもち、それぞれが呼応しあっている。そんな印象を持った。
「水分れ」という作品を引用する。
夕刻に雨は強くなる 大きな欅のそばには 雨傘をさし
てビールの缶を手にした 黒い男が佇んでいる
(中略)
男の視線はわたしを哀れむようにとらえているのだろう
か 全身が濡れたわたしは この雨のなかをどこまで走
ればいいのだろうと思う 滴るものをまとってしまった
からには 身体はもはやわたしを許そうとはしなくなっ
ている (抜粋)
雨で全身が濡れたわたしと、わたしを見る男。作品の終盤「おかえりなさい」と叫ぶ幼子。「わたし」がビール缶を持った時から黒い男の描写はなく、わたしと男は同一化したのではないかと思う。座敷ではわたしのための宴がはじまろうとしていて、それを受け入れている。読んでいると時空が歪んでいくような、自他の境界が薄れていくような不思議な感覚に襲われる。
作品に通底する水の流れを頼りに読み進めていくと、眼球をモチーフとした数篇の作品にたどり着く。詩「拾う男」を紹介したい。
ちいさな車輪がついた台車はときおり軋む 病棟をつな
ぐ通路の曲がり角ごとに落ちている眼球を拾いあつめて
歩くのがわたしの仕事だ
眼球はまだ湿っていてすこし押さえただけで粘液がに
じみでてくるものもあれば乾ききって白濁しているも
のもあるそれらを台車のうえの籠にいれていく
(中略)
病棟を巡りおえるころには台車のうえには眼球が山の
ように積みかさなっている 生きてきた人には今日まで
の風景が張りついている
しかし 眼球を失った人はそこに貯えられていた風景も
失っている 夜ふけ 地階にある大浴場の天窓に向け
て わたしは台車をかたむけて眼球を落とす
開けはなたれた天窓をぬけて浴槽に沈んだ眼球は湖ま
でつづく隘路を流れていく
わたしは湖にたどりついた眼球を想う きっと湖岸近く
の水面には夥しい数の眼球がただよっているのだ人々
からにじみでた記憶はそこで入り混じり 新しい風景が
溶けこんだ湖に変容していく (抜粋)
想像すると恐ろしい光景だ。昔、眼球の解剖生理学を習った時、眼というものの造りの繊細さに驚いたことがある。網膜が捕らえた映像を、細い視神経を通して脳へ運ぶ小さな感覚器。こんな儚いものに頼って生物は物を視て脳に記憶させているのかと、心もとなく思った記憶がある。視えているということは奇跡のようなもので、言いかえればわたしたちは容易に外界を感知できなくなるのだ、と。
その眼球を病棟で拾い、山のように積み重ね、大浴場に沈める。大勢の人が見たものが湖の底で変容していく。ふと、スマホで撮られた大量の画像や書き記した言葉がクラウドに溜まっていく場を連想した。無数の情報が一か所に蓄積し、膨大なデータと化して新たな次元へと向かう一連の流れ。また、病棟を日常的に死と向かい合う場所ととらえると、眼を拾う=臨終に立ち会う、とも言え、にわかに死後の世界が立ち上ってくる。死者が見たものや感じたこと、その大量の記憶が変容される湖の底の世界。しかし湖の底に変容される記憶が存在するということは、命を終えたからといってすべてが無になるわけではない、ということにつながっていくと言えないだろうか。読み終えて、そのような思いを巡らせた。
(瀬崎祐詩集『水分れ、そして水隠れ』思潮社)