『空間の詩学』序章Ⅱ

◆序章Ⅱ(p011-017)

 

引用〔強調部分も本文引用〕
 
「現象学だけが――つまり個の意識の内部でのイメージの出発を考察することが――われわれにイメージの主観性を恢復させ、イメージの超主観性の意味、力、豊かさを測定してくれるのである。この一切の主観性、超主観性は絶対に規定できない」
 
「詩的イメージは、実際、本質的に可変なのだ。それは概念とはちがって、構成的ではない」
 
「詩的イメージの水位では、主体と客体の二元性は虹色にきらめき、眩くひかり、たえず活潑に反転している」
 
「単純なかたちのイメージは学殖を必要としない。イメージは素朴な意識の財なのだ」
 
「イメージは思想のまえに存在することを明示するには、詩(ポエジー)は精神の現象学というよりも、むしろたましいの現象学であることをのべなければならない。それは夢想する意識について資料をあつめなければならないだろう」
 
「この種の哲学にとっては、精神とたましいは同義語ではない」
 
「たましい、これは不死のことばなのだ。ある詩のなかでは、けしされない。それは息からうまれたことばなのだ」
 
「詩的夢想においては、たましいは緊張をとき、静かに、しかも活潑に、目ざめているのだ」
 
「ピエル=ジャン・ジューヴは、『詩(ポエジー)は形式を創始するたましいである』と、かく。たましいが創始する。ここではたましいは原初の力である。それは人間的尊厳である」
 
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要約
 
・Ⅰで書かれていた現象学を追究する理由を述べている。つまり、イメージの出発を考察することが、変化可能な詩的イメージを把握する唯一の手段である。
 
・詩は精神の現象学ではなく、たましいの現象学である。ドイツ哲学では精神der Geistとたましいdie Seele は明確に区別されている。フランス哲学ではここがあいまいにされているが、これを同義語として用いると失敗するだろう。
 
・夢想を夢と混同してはならない。詩的夢想時はたましいは活潑に動いている。それは形式を創始する原初の力でもある。
→そういえば、詩が浮かぶ状態の時はリラックスしながら、その緩んだ状態の中で、何ともいえない目的のない集中力がある。目的がないというのは、具体的なことを思い出すなどの頭の使い方ではなく、何か奥に潜んでいるものに向かい合うような感じになる。ここにいてここにいない感覚。