『空間の詩学』本章に触れて思うこと

どうにか序章を読み終え、今第1章を読んでいるのだが、これまでのような書き方では表面をなぞるだけになってしまうと思い始めた。書き写すだけで満足してしまいそうだ。
なので、詩作の糧になりそうな印象的な部分を抜き書きし、解読できないことは他の書物で深めていく方法を取ってみようと思う。
現時点では、バシュラールのいう現象学とはどういうことかをもう少し掘り下げたい。
ちょうど指南書としている『バシュラールの世界』(松岡達也著)の第2章が「バシュラールの現象学」なので、『空間の詩学』第1章と並行して読み進めていこう。
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と、そんな感じで読んでいたところ、とても興味深い部分があった。
『バシュラールの世界』(松岡達也著)第2章「バシュラールの現象学」P51に、ピエール・キエ『バシュラール論』が引用されていた。それは次のような記述である。
 
〈『空間の詩学』が傑作であるのは、現象学的方法によってではない。それはバシュラールが、自己の幻想の法則にすっかり身をまかせているからであり、彼の鑑識が彼の原理よりずっと確かであるからである〉『バシュラール論』P111
 
現象学にとらわれないバシュラール論。ピエール・キエとはどんな人物なのだろう、『バシュラール論』を読みたくなった。中古本を探してみると数百円で売られていたのでさっそく注文。届くのが楽しみだ。

『空間の詩学』序章Ⅸ

◆序章Ⅸ(p036-042)
 
ようやく最終節に来た。
序章の最後の節にあたるここでは、
本書の研究範囲と本章の外観が述べられている。
 
〇本書で探究すること
・幸福な空間のイメージの検討(トポフィリ〈場所への愛〉)
・空想の存在の豊潤さ
・詩的イメージの現象の研究(序章Ⅰより)★詩的イメージが立ち現れる源泉の追究)
⇒これらを明らかにするのは現象学を用いる必要がある。
 
〇各章の概観
第1章 家・地下室から屋根裏部屋まで・小屋の意味
第2章 家と宇宙
・家の詩学の問題
・地形分析(トポアナリーズ)の学説の総体の構成
・「家」を思うことによって、自己のなかに「すむ」ことを知る
 
第3章 抽出・箱・および戸棚
・心理に鍵がかけられていること
・隠されたものの現象学
 
第4章 巣
第5章 貝殻
・物事の実在によって制約されない想像力の活動の立証
 
第6章 片隅
・「身をひそめる」「片隅」ということ
 
第7章 ミニアチュール
・小さなものと大きなものとの弁証法。
 
第8章 内密の無限性
・イメージの無限性について
 
第9章 外部と内部の弁証法
・イメージへの存在論的価値
・開いたものと閉じたもの
 
第10章 円の現象学
・比喩の主知主義をあばく
・純粋想像力の固有の活動をしめす

『空間の詩学』序章Ⅷ

◆序章Ⅷ(p034-036)
 
引用〔強調部分も本文〕
 
「想像力を人間の本然のもっとも大きな力とみなすことを提案したい」
 
現実的なものの機能は過去にまなんだ賢明な機能であり、この種のものは古典的心理学によって解明されてきた。だがわたくしがまえの著作において明らかにしようとつとめたとおり、この現実的なものの機能に、これと等しく実在的な非現実的なものの機能をむすびつけなければならない」
 
「人間の霊魂(プシシスム)の二つの機能、現実的なものの機能と非現実的な機能とを協力させることができなければ、詩のあたえる心的利益にあずかることはできない。一篇の詩が現実と非現実をおりなし、意味と詩(ポエジー)との二重活動によってことばに活力をあたえたならば、その詩はわれわれに真のリズム分析療法をあたえてくれる」
 
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要約
 
・過去を踏まえた「現実的な機能」と実在的な「非現実的な機能」が両輪となって、詩は真のリズムを発揮する。また、再現するための想像力はさほど重要ではない。
 
・何をおいても想像力が人間の最も大きな力である。想像力はイメージをうみだすちからである。
 
※メモ
想像力・・・実際にないものを心のなかに思い描く力
イメージ・・・心のなかに思い描く情景
想像力(精神の動性)→イメージへとつながる
心像と心象・・・心像の方が対象に対する具体性がより強い

『空間の詩学』序章Ⅶ

◆序章Ⅶ(p032-033)
 
引用
 
「知識には同じく知識をわすれる能力がともなわなければならない。不知(ノン・サヴォワール)とは無知ではなくて、知識を克服する困難な行為である。この代償によって作品はたえず一種の純粋な開始となり、創造は自由の行使となる」(ジャン・レスキュールの言葉を引用)
 
「詩においては不知(ノン・サヴォワール)は根本条件である」
 
「作品は生のはるかうえにつきぬけ、生には作品をときあかせない」
 
「芸術はいきるようには創造しない。創造するようにいきるのだ」(ジャン・レスキュールの言葉を引用)
 
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ジャン・レスキュール (1912– 2005):フランスの詩人。引用は『ラピック』より
 
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要約
 
・この章は見開きに収まっている。詩人ジャン・レスキュールの著書『ラピック』より引用を多くとっている。ポイントは「詩においては不知は根本条件」という点だろう。→★ここで、「不知」と「無知」についての定義を明確にする必要があるが、ひとつの疑問が起こる。これまで「不知」→知らないということを知っている。「無知」→知らないことすらわかっていない、と思っていたのだが、ここでの「不知」は「知っていることをいったん忘れて知識によりかからない」という風に読めてしまう。ここもいったん保留にする。
 
・「芸術はいきるようには創造しない。創造するようにいきるのだ」、この言葉から、ここでも詩は芸術家の人生や感情で成り立つものではないとくりかえしている。創造が先だと、前章で述べた、詩的イメージがすべての始まりであることを強調している。→★好きな言葉。作品によって自分が開かれていくという経験は私にもある。

『空間の詩学』序章Ⅵ

◆序章Ⅵ(p027-031)
 
引用〔強調部分も本文〕
 
「もし詩的イメージに関して、純粋昇華の領域を分離できれば、おそらく精神分析学の研究と比較して、現象学のしめる位置がさらに正確にしめせよう。この純粋昇華とは、情念の重荷をすてさり、欲望の圧力から解放された昇華であり、なにものをも昇華させない昇華である」
 
「詩的意識は、ことばのうえに、日常のことばの上方に出現するイメージによって完全に吸収される。詩的意識は詩的イメージによってまったくあたらしいことばをかたるのだから、過去と現在との相関関係を考察しても無益である」
 
「精神分析学者はイメージの存在学的研究をさけ、ひとりの人間の歴史をほりさげる。詩人のひそやかな苦悩をみて、これをしめす。かれは肥料によって花を説明するのだ」
 
「詩人がさしだすことばの幸福――ドラマそのものを支配することばの幸福をとらえるには、詩人の苦悩を体験することはいらない」
 
「いきられないものをいきること、ことばの開き(ウヴエルチュール)にたいし敏感であることが問題なのである」
 
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要約
 
・純粋昇華とは、作者の情念や欲望や過去を排除したうえでの詩的イメージであり、精神分析学に比べ現象学は純粋昇華を正確に示すことができる。なぜなら心理学者や精神分析学者は詩的イメージのなかに、単純な戯れしかみとめず、一人の人間の苦悩や人生をあてはめてしまう。そこに詩的意味を思いつかないからである。しかし詩(ポエジー)は無数に噴き出るイメージをともなって存在し、そのイメージによって創造的想像力は自分のなかに定着するのだ。
 
・「いきられないものをいきること、ことばの開き(ウヴェルチュール)にたいし敏感であることが問題」→★とても魅力的な言葉。だが、その意味は今はわからない。ウヴェルチュール(ouverture)=開くこと、というところまで。ここは保留。
 
・★この章でのバシュラールはやや興奮気味に精神分析学者への批判をくりかえしている。精神分析学の判断に従うと、詩人は一つの症例にされてしまうと述べ、最後には「心理学者は胎以外のものに口をだすな」と論争口調である。どこかいらだちさえ感じさせる。詩が精神分析学者によって解釈されことが許せないようにみえる。

バシュラールの難解さについて

ここまで序章を一節ずつ、半分まで読んできたが、やはりバシュラールは読みにくい。心に留まる言葉を読み込もうと思っても、周囲にいくつもの意味や思想が巻かれていて、輪郭がうやむやになっていく。序章でさえそうなのだから、本章はどうなるのか。他の人が彼のことを書いたブログを読んでも、それほど深められていない印象がある。
 
松岡達也氏は『バシュラールの世界――文学と哲学のあいだ――』でバシュラールが日本でさほど広がらなかったのは翻訳が困難だったことをあげている(やはり誰もが難しさを感じている・・・)。彼の詩的な発想は日本語訳になじみにくく、また、彼の素養と関心の広さが翻訳者のそれと対応しにくいと述べ、〈バシュラールを読むための心得〉を6つ掲げている。
 
1)彼が20世紀の科学に明るいということ
2)哲学の専門家であるということ
3)精神分析に造詣があること
4)文学的教養が深いということ
5)文体に特徴があること
6)思想的立場に変更があったこと
松岡達也著『バシュラールの世界』(第一章バシュラールの読み方 より)
 
わたしが今実感しているのは5)の部分。さらっと読んだときには理解できていると思うのに、説明しようとするとどの言葉も適さなくなって、抜き書きで止まってしまう。どこを触っても意味が崩れていく。
先の松岡氏の言葉をまた少し引用する(同本より)。
 
「もう一つバシュラールを日本の読者にとってわかりにくくしているのは、彼の文章、文体である。 もし仮に、向こう側のものがガラスを通って伝わってくるように、思想が言語のガラスを通して裸のまま、ずっと伝わってくるのなら、それなりにわかりやすいのだが、彼の場合、思想がかなり言語の飾りをつけて表現されている。たとえば、直観の純粋性がはじめからあるというのは間違いだ、人はだれも、主観的、感情的なものをまったくまじえずに、対象に向かうことはできない、ということを彼は前にも書いたように「源泉は不純である」という風に書く。(中略)バシュラールの作品は、サルトルの論文を読むのと違ったむつかしさがある。評論であり、詩論であり、批評文でありながら、詩的なイメージが多く出てきて読者を誘惑し、読者を魅了する。そうした詩的イメージや文章のリズムをうまく翻訳するのは不可能に近い。」
 
やはりそうか。そう、論を読んでいるのに、詩を読んでいるような気にさせられるのはわたしだけではないんだ。またそれが魅力でもあるんだ、と再認識した。なかなか困難ではあるけれど、読み甲斐がある。自分なりに読んでいこう。翻訳の方はさぞや大変だったろう。
また〈バシュラールを読むための心得〉の6)も面白い。彼の詩に対する見方が大きく分けて三期に分けられているということ。それはまた改めての機会に。