木原孝一 散文詩集『星の肖像』(1954年)

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時計塔
 
 
僕はまだ着なれない背広を気にしながら僕の尊敬
する詩人のひとりと舗道のうえを歩いていた。
晩春の微風が頬を吹き花花のようにイルミネイションが
夜の街角を飾っていた。僕らは新しい映画や雑誌や衣裳
などについて家禽類のように話していた。ふと彼は立ち
止ると十字路に建てられた時計塔を指さした。
 あの長針を舗道のこちら側から見るのと。あちら側か
ら見るのと。恐らく二分は違っているね。
 そうしてまた僕らは数石のうえを縞馬のように歩きつ
づけた。ふと反対側の歩道に僕は碁盤縞の少女やハンチ
ングの青年やアッシュのステッキを提げた老人たちを見
出した。だが僕は彼と共にある画家の話をしはじめてい
た。まるで彼のそうした発見を忘れたかのように。 しか
し彼の発見は何時の間にか僕を漠然とした不安のなかに
置かずにはいなかった。            
                 詩「時計塔」全文(散文詩集『星の肖像』より)
 
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この詩集は古書店で偶然手に入れた。木原孝一という詩人をその時は知らなかったが、安価だったのと、表紙に魅かれて購入した(帰ってから北園克衛デザインと知り驚く)。散文詩は冗長なものが多いが、この詩集の作品はどれも一貫して張りつめた空気感があり、情景が目に浮かぶ。
特に、
 
―― あの長針を舗道のこちら側から見るのと。あちら側から見るのと。恐らく二分は違つているね。/そうしてまた僕らは敷石のうえを縞馬のように歩きつづけた ――
 
という箇所は、人間の物事の捉え方の違い、時計塔という大きな指標があったとしても歪んでしまう認識を端的に表している。また、その事実を指摘しつつその事実を容認するふたりの人物をも描かれていて面白い。『木原孝一詩集』(思潮社・現代詩文庫)の自伝で人間嫌いだったと書かれていて、他者との距離の持ち方からして納得できた。
 
 
・木原孝一 きはら-こういち:1922-1979 昭和時代の詩人。
大正11年2月13日生まれ。詩誌「VOU(バウ)」をへて,戦後「荒地(あれち)」に参加。「詩学」の編集者として新人発掘につとめた。詩集に「星の肖像」「ある時ある場所」,音楽詩劇に「御者バエトーン」(昭和40年イタリア賞グランプリ)など。昭和54年9月7日死去。57歳。東京出身。東京府立実科工業卒。本名は太田忠。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus より)
 

『空間の詩学』序章Ⅴ

◆序章Ⅴ(p025-026)
 
引用〔強調部分も本文〕
 
「詩的想像力についての一次的な現象学的研究においては、孤立したイメージ、これを展開するフレーズ、詩的イメージを放射する詩句、ときには節が、ことばの空間を形成する」
 
「この空間は地形分析(トポアナリーズ)の方法によってきわめられなければならないだろう。たとえば J=B・ポンタリスはミシェル・レーリスを『ことばの坑道における孤独な探鉱者』としてしめす」
 
「ポンタリスはさらに『かたる主体が主体のすべてである』という公式をのべる」
 
「かたる主体はことごとく詩的イメージのなかに存在するといっても、いまでは逆説とはおもえない。なぜならば、もしかたる主体が完全に身をゆだねなければ、イメージの詩的空間にはいれないからだ」
 
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J=B・ポンタリス:1924年生まれ。フランスの精神分析学者、編集者、作家。サルトル、メルロ=ポンティ、ラカンらと親しかった。2006年には小説『兄の弟』でメディシス賞を受けている。著書『フロイト以後』(1968)、『夢と痛みの間』(1977)、『見失うこと』(1988)、ラプランシュとの共著『精神分析用語辞典』(1977、みすず書房)ほか。
 
ミシェル・レーリス(1901―1990):フランスの民族学者、作家。パリ生まれ。シュルレアリストとして出発し、エッセイ『闘牛とみなされた文学』(1935)、自伝的作品『成年』(1939)で注目され、『削除』(1948)、『装具』(1955)、『小繊維』(1966)、『かすかなざわめき』(1976)からなる『ゲームの規則』La Règle du jeuは新しい告白文学として評判となる。ほかに詩集『癲癇(てんかん)』(1943)、夢幻小説『オーロラ』(1946)、エッセイ『夜なき夜、昼なき昼』(1961)がある。
 
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要約
 
・詩の現象学的研究は2段階に分けられる。一次には、イメージ・フレーズ・詩句(ときには節)がことばの空間を形成し、二次的に現実の秩序をみて、構成上いかなる位置と役割をしめしているかを決定する。
 
・★ことばの空間を地形分析(トポアナリーズ)の方法できわめるという箇所は現時点では解読できない。地形?地図?いったん保留
 
・★『ことばの坑道における孤独な探鉱者』といわれたミシェル・レーリスの詩を読んでみたい。
 

『空間の詩学』序章Ⅳ

◆序章Ⅳ(p021-024)
 
引用〔強調部分も本文引用〕
 
「このようにわたくしの研究は、純粋な想像力からうまれでてくる、根源における詩的イメージに限定し、多数のイメージの集合としての詩の構成の問題は扱わない」
 
「文芸評論家は、しばしば指摘されていることだが、自分には作れない作品をさばき、しかも軽薄な酷評がしめしているとおり、自分では制作しようとしない作品をさばくのだ。文芸評論家は必然的に冷酷な読者である。酷使され、くたびれ、ついには政治家の語彙までおちぶれたあのコンプレックスということばを、まるで手袋を裏がえすように、裏がえしていえば、つねに物知り顔で、つねに批判的な文芸評論家や修辞学の先生というものは優越サンプレックスにひたりたがるひとなのだ」
 
「読書に少しでも熱中したものはみな、読書によって、作家になりたい願望をやしない、またおさえつけている。よんだ文章が美しすぎると、羞恥心がこの願いをおさえてしまう。しかしこの願いはふたたびうまれてくる。とにかく好きな作品を何度もよむ読者はみな好きな文章が自分にかかわってくることをしっている」
 
「文章のか細い糸のうえ、表現の儚い生命のなかで、創造が実現する。しかしこの詩的表現は、生の必然によるものではないが、にもかかわらずわれわれの生に強い活力をあたえる」
 
「詩的イメージはことばからの浮上である。それはいつも意味をになったことばのややうえにある。したがって詩をいきることによって、われわれは浮上という有益な経験をすることになる」
 
「実用言語の通常の列からはなれたこのことばの飛躍は、ミニアチュールの生の飛躍である」
 
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ミニアチュール(仏:miniature):彩画・細密画
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要約
 
・バシュラールがこの本で研究するのは(基礎的な現象学的観察が追究するものは)「根源における詩的イメージ」である。詩には心理的に複雑な要素が介入し構成されているが、その部分については述べない。純粋な現象学が「反響」できるのは、全体から孤立したイメージの水位においてである。
 
・好きな作品を何度も読む読者は、好きな文章が自分にかかわってくる ―― 話のストーリーではなく、それよりもっと深い、作者への共感を覚え、読者は受け身を乗り越え、読書の愉しみから創作の愉しみへ反映していく。→★わたしも好きな本を何度もくりかえし読むほうだが、たしかに、読むたびに新鮮な思いに駆られる。作者と読者という枠を超えて、一体化する感覚に包まれることもある。
 
・詩的イメージは意味を纏った言葉から少し離れたところ(やや上)にある。その距離は短くはあるが、実用言語からはなれた言葉のまえで、生は激しい生気を放つ。そのように意味を綴った言葉から浮上することで、詩句の言葉は予知しがたくなり、また、自由をまなびとる。詩はことばの胎内そのものに自由を導入し、それゆえ、詩は自由の一つの現象として現れる。

『空間の詩学』序章Ⅲ

◆序章Ⅲ(p017-020)

 

引用

「共鳴(レゾナンス)と反響(ルタンテイスマン)という現象学的姉妹語を鋭く感じとれる可能性がここにあることに注意しなければならない」

「共鳴は世界のなかのわれわれの生のさまざまな平面に拡散するが、反響はわれわれに自己の存在を進化することをよびかける」

「反響は存在を反転させる。詩人の存在がまるでわれわれの存在のようにおもえる」

「ある詩の充溢と深みはつねに共鳴―反響という姉妹語の現象なのである」

「イメージはわれわれのなかに根をはる。たしかに外部からうけいれたものだが、自分にもきっとこれを創造することができた、自分がこれを創造するはずだった、という印象をもちはじめる。イメージはわれわれのことばの新しい存在となる。イメージは、そのイメージが表現するものにわれわれをかえ、これによってわれわれを表現するのだ。いいかえれば、それは表現の生成であり、またわれわれの存在の生成である。ここでは、表現が存在を創造する。
この最後のことばは、われわれが考究しようとしている存在論の水位を規定してくれる」


「心理学のようにおずおずと因果関係をたどる学説、あるいは精神分析学のように、強く因果関係をあとづける学説は、詩の存在論を決定することはできない」

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要約

・ここでは共鳴(レゾナンス)と反響(ルタンテイスマン)について述べられている。精神の充溢は共鳴、たましいの深さの方向は反響と、水平と垂直の二方向で示されている。読者を完全にとらえる詩は、そのかたちを備えている。

・まずは反響によって、自分のなかにうまれでる詩の力を感じる。そののち共鳴や感情の反射や自分の過去の呼び声を経験する。→★たしかに、力のある詩を読むときは、読みながら(最後まで目を通さなくても)その深さがわかる。詩自体を自分の経験に照らし合わせるのはそののちの出来事となっている、その実感がある。残念ながらそんな作品に出合うことはそう多くはない。

・存在が表現を造るのではなく、表現が存在を創造する。イメージが表現をつくり、われわれをかえていくということ。

・精神分析学・心理学は詩の存在論を決定できない。→★私的には少なくともユングは詩の存在の創造性を持っていると思うのだが。

『空間の詩学』序章Ⅱ

◆序章Ⅱ(p011-017)

 

引用〔強調部分も本文引用〕
 
「現象学だけが――つまり個の意識の内部でのイメージの出発を考察することが――われわれにイメージの主観性を恢復させ、イメージの超主観性の意味、力、豊かさを測定してくれるのである。この一切の主観性、超主観性は絶対に規定できない」
 
「詩的イメージは、実際、本質的に可変なのだ。それは概念とはちがって、構成的ではない」
 
「詩的イメージの水位では、主体と客体の二元性は虹色にきらめき、眩くひかり、たえず活潑に反転している」
 
「単純なかたちのイメージは学殖を必要としない。イメージは素朴な意識の財なのだ」
 
「イメージは思想のまえに存在することを明示するには、詩(ポエジー)は精神の現象学というよりも、むしろたましいの現象学であることをのべなければならない。それは夢想する意識について資料をあつめなければならないだろう」
 
「この種の哲学にとっては、精神とたましいは同義語ではない」
 
「たましい、これは不死のことばなのだ。ある詩のなかでは、けしされない。それは息からうまれたことばなのだ」
 
「詩的夢想においては、たましいは緊張をとき、静かに、しかも活潑に、目ざめているのだ」
 
「ピエル=ジャン・ジューヴは、『詩(ポエジー)は形式を創始するたましいである』と、かく。たましいが創始する。ここではたましいは原初の力である。それは人間的尊厳である」
 
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要約
 
・Ⅰで書かれていた現象学を追究する理由を述べている。つまり、イメージの出発を考察することが、変化可能な詩的イメージを把握する唯一の手段である。
 
・詩は精神の現象学ではなく、たましいの現象学である。ドイツ哲学では精神der Geistとたましいdie Seele は明確に区別されている。フランス哲学ではここがあいまいにされているが、これを同義語として用いると失敗するだろう。
 
・夢想を夢と混同してはならない。詩的夢想時はたましいは活潑に動いている。それは形式を創始する原初の力でもある。
→そういえば、詩が浮かぶ状態の時はリラックスしながら、その緩んだ状態の中で、何ともいえない目的のない集中力がある。目的がないというのは、具体的なことを思い出すなどの頭の使い方ではなく、何か奥に潜んでいるものに向かい合うような感じになる。ここにいてここにいない感覚。

『空間の詩学』序章Ⅰ

ここで、この本の読みの方向を明確にしておきたい。
究めたいのは読書感想や批評ではなく、
あくまで、この書物に書かれていることが
私自身の実際の詩作過程にどのように立ち現れるのか、
あるいはまったくかかわりない流れなのか、ということ。
そのための読みであり、学習であるということ。
楽しみです。
 
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『空間の詩学』の序章は9つに分かれている。
まずは各パート毎の、印象に残った個所を引用する。
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◆序章ーⅠ(p008-011)
 
引用
「合理主義の流れをできるかぎり厳密にたどり続けてきた哲学者は、もし詩的想像力によって提出された問題を研究しようとするならば、自分の知識をわすれさり、これまでの自己の哲学研究の習慣をことごとく放棄しなければならない。ここでは過去の教養は通用しない」
 
「詩的イメージは、霊魂(プシシムス)(*1)のおもてに突如としてうかぶ浮彫であり、定時の心理的因果性からでは正しくきわめられないものである」
 
「新しい詩的イメージと無意識の奥にねむる原型との関係についてふれなければならないが、その際この関係は、適切にいえば、因果的ではないことを説明しなければならない」
 
「詩的イメージは、その新しさ、その活動において、独自の存在、独自の活力をもつ。それは直接の存在論の一つである」
 
「詩人は彼のイメージの過去をわたくしにおしえてくれない。しかしかれのイメージはわたくしのこころのなかにたちまち根をおろす。ある特異なイメージが伝達できるということは、存在論的にたいへん重要な事実である」
 
「詩のイメージの問題を哲学的に明らかにするには、結局は想像力の現象学に到達しなければならない」
 
(*1)霊魂(プシシムス)・・・バシュラールの基本的な用語。心的現象・精神現象の総称をさしている。日本語訳では他に「心霊」と訳しているものもあるらしい。
 
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要約
・詩的イメージの研究にあたっての合理主義の哲学者の否定。
 
・特異なイメージが他人のこころに根を下ろすことができる。
→★たしかに、良質な詩は、書かれていることが体験したことでなくても手に取るように、まるで自分がその時間のその場所にいたかのような感覚になる。その感覚を得たいがために私は詩を読んで(書いて)いるとも言える。
 
・詩的イメージの瞬間的存在について。
 
・書き始めですでにこの書物の研究目的について言及している。「詩的イメージの現象の研究」を柱に進んでいくものと思われる。