秦ひろこ詩集『球体、タンポポの』(2016刊)

hatahiroko (186x293)
 
2016年に出版された秦氏の第4詩集。
27作品で編まれたこの詩集には、植物や動物、身の回りの物が登場する。作者はそれらを受け入れ、時には同化し、自分と他者の境界をなくしていく。境界をなくす、というより両者が重なる部分ができる、といったほうがいいか。そしてその重なりにはぬくもりが宿っている。
 
羽毛の ふとん
ふしぎの おもさは
羽毛の あいじょう
やわらかに わたしを つつむ
はねの むすう
わたしは うすいからの
一この たまご
ほのあかるく 透けている
しろい かたち
        (「翼竜など」一部抜粋)
 
「羽毛のふとん」ではなく「羽毛の ふとん」
この一マスの空白がふとんになる前の水鳥の姿をよみがえらせる。ふとんという物体から現れた鳥がわたしを包み、わたしは鳥のはじまりである「たまご」になる。最も原始的な姿でまるくあたためてもらえる、それは遠い昔の生き物に共通した安心感をよみがえらせる。
 
川沿いの土手道を犬と十一年散歩して
犬が透明になってもいっしょに散歩
まいにち川をへだてたゴンドウを愛でる
ゴンドウはますますゴンドウになり
     (「思イ出シテクレロ」第一連)
 
ゴンドウとは丘陵の名前。
伏した大きな生きものに見えるから、らしい。そのゴンドウと透明になった犬との散歩。はたから見ればひとりで歩いているように見えるだろう。でも重なっている。重なった部分で会話する。
 
こんなわたしに
在るけどない
ないけど在る
そんなものを紡げという
     (「思イ出シテクレロ」最終連)
 
ゴンドウに突然難解なことを言われてひるむ作者がいる。そのやりとりが対等で誠実でやさしい。
 
雨上がりの直後には
水の人がいく人か
水みどりに透ける身体で
しめやかにあぜ道を行き交って
わたしも水みどりいろに染まりつつ
彼らと会釈などかるく交わした
         (「水の人」一部抜粋)
 
田んぼの稲の描写のあと、この連が続く。
水の色を反射する稲が細い人になる。
「わたし」も水みどり色に染まり、会釈する。
 
  * * *
今回の詩集から、旧姓を復活させたとのこと。
あとがきによれば《大人になって、自らの遡る傾向に思い当たり、別の方向をさまよってしばらく、「秦」に戻り着いたふうだった》とある。
詩集後半は自らの原風景を描いた作品がいくつかある。
 
子どものころのわたしの原型
入れ子みたいにふだんはしまわれ
現在(いま)を渡る大人のわたしが
ひとりになってもの想うとき
入れ子に潜む子どものころの
もとの成分がにじみ出る
     (「入れ子のわたし」一部抜粋)
 
自分の中の内的な一貫性が実感できたことで、他者との本質を共有する力が深まったと思われる一冊である。